関東
那須|ひぐらしと、高原の風と、コーヒーと
夏でも涼しい風が吹く那須高原

7月の那須。夕方には、西日が少しずつ傾き、山から下りてくる風は、夏とは思えないほど涼しい。
緑の匂いを含んだその風が、木々の葉をいっせいに揺らしていく。遠くでは、ひぐらしが鳴きはじめている。
目的地も決めず、地図も見ずに、ただひたすら歩く。車の音も人の声も届かない道で、聞こえてくるのは、ひぐらしの声と、高原を渡る風と、自分の足音だけ。
偶然たどり着いた、秘密基地のような一軒
その日は、旅先の宿の周辺を、ただアテもなく散歩していました。夕日の心地よい風を感じながら、ただ気の向くままに足を進めていただけです。
細い道に入り角をひとつ曲がると、道の先に、看板もデザインも可愛らしい一軒が見えてきました。
あとで知ったのですが、このお店の方たちは、「わかりにくい場所にある、秘密基地みたいなカフェ」にしたかったのだそうです。地図を頼りに探していたら、かえって見落としていたかもしれない。散歩の向きが一つ違っていたら、きっとそのまま通り過ぎていた。
僕はまんまと、その『ひつじ珈琲』なる秘密基地へ誘われました。
「かかりつけの焙煎士」がいるお店

扉を開けると、広々とした空間に、雑貨やドリップコーヒーが美しく並んでいます。そして、店内にはしっとりとしたジャズバーのような音楽が流れていました。
奥のカウンターで迎えてくれたお店の方は、とにかくコーヒー豆に詳しい方でした。どんな味が好きか、どんなふうに飲みたいか。こちらのふわっとした言葉を、一つひとつ丁寧に拾いながら、合いそうな豆を教えてくれる。
このお店は、自分たちのことを「かかりつけの焙煎士がいるお店」と呼んでいます。かかりつけの医者のように、好みや暮らしを知ってくれている焙煎士がいる。カウンター越しの会話は、まさにその言葉どおりでした。
暑い日に、あえてホットをいただく

せっかくなので、店内で一杯いただくことにしました。外は夏。それでも、豆本来の味を確かめるなら、とホットを選ぶ。
カップが目の前に置かれた瞬間、華やかな香りがふわっと立ちのぼる。しっとりとした音楽の中で、ゆっくりと口に運ぶ。
窓の外では西日がさらに傾き、ひぐらしの声が少しずつ近づいてきていました。
一期一会を、袋に詰めて

帰り際に、豆を選ぶ。手に取ったのは、ルワンダとコロンビアでした。
同じ豆でも一期一会。収穫した年や焙煎度合いによって、出会える味はそのとき限り。袋に詰めてもらったコーヒー豆は、この夏の夕方に、このお店で出会った一杯の続きでもあります。
店を出ると、空はすっかり橙色に染まっていました。
来たときよりも、ひぐらしの声が大きく聞こえる。風は少しひんやりとして、袋の中の豆が、歩くたびにかすかに鳴る。
ひぐらしという名前は、日暮れどきによく鳴くことから付いたと言われています。
時計を一度も見ないまま、知らない町の裏路地で、一杯のコーヒーに出会った夏の夕方。その一日は、ひぐらしの声に送られながら、ゆっくりと暮れていきました。
ひつじ珈琲
黒磯駅から西通商店街を抜けて15分ほど。午後のゆったりした時間がおすすめです。
・住所:栃木県那須塩原市大黒町5-2
・時間:10:00〜18:00(定休日:水・木)